昭和五十六年七月十七日 朝の御理解
御理解第二十八節
病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするのに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、一心に、まめで繁盛するような元気な心で信心せよ。
長い信心しとればよいと云うことではない。井戸ざらえをするのにというような、たとえで申されておりますが、真実その井戸浚えが出来ておるような信心。その為に最後におっしゃっておられますように、元気な心で信心せよと、元気な心が無いと、ただ続いておりますもう何十年も、云うならば百年近くもの信心が続いておるという人があるかもしれませんね。お爺さんの代からお父さん何代にもわたっての信心。それでも一向にまあ清水になるまでといったようなおかげにならない。元気な心が足りないからですよね。どうしても元気な心が要ります。 三代金光様は「日に日にがさら」とこう仰せられておりますね。これはめぐりのお取り払いを頂くと云うことだけじゃなくて、おかげを受けていく、お徳を受けていくと云うてもやはり、この日に日にさらと云うような信心が必要なんです。ね。心が枯れておってはね、例えば切り花に致しましてもそうですね。もうしおれてしまっておるようなのは水揚げが出来ません。勿論まあ少し、しおれかかったと云うときに、根を焼いたり、叩いたり致しますとまた、新たに水をずうっと吸い上げる。その水を吸い上げておるときのような心の状態が要るんです。
云うならば神様のおかげをね、それこそおかげおかげと感じれる時は、水を吸い上げておるときです。降ろうが照ろうがおかげという頂ける、感じれれる信心ですね。
昨日熱心になかなかよい信心が出けておりましたが。あるひょんな事からすかっと信心をやめてしまった方がある。その方の事をお願いしてもらいよりましたら、こう今なくなりましたね、あのう水道ばかりで、井戸ポンプです、井戸のあのポンプ。その水が上がらない、ガチャどこかが、ガチャガチャやってるけれども水が全然でらないという、そういうポンプを頂いた。それでなおお願いしよったら、こちらから「迎え水を送ってやれ」と頂いたんです。水と云うことはおかげですから、ははぁ一生懸命参ったばってんおかげ頂ききらじゃったけん、もう私どんじゃダメといったような事でまあ、信心をまあやめておるのじゃないかとこう思うですよね。
なうほど思うてみると一生懸命お参りもした、一生懸命御用もさせて頂きよったけれども、こりゃもう俺達じゃおかげ頂き来らんという風に、まあ感じたのかもしれませんね。そう云うときにまあ云うならば、元気な心でまあ云うならば、先だって富久信会の時に、岡崎さんが発表しとられましたように、どうでもひとつ実のある信心をしよらんとね、教祖様はその事をおさびがえとこうおっしゃっておる。ねこうさびられる。昔、箕というのでこうさびったね。こうさびっておると空はポンポン外へ飛んでいく、実だけが残るという、それを教祖様はおさびがえと。時々ね、信心を一生懸命しておってもですね、いわゆるおためしがありますぞとか、またはおさびがえの時にね、飛んでしまうような信心じゃならんとかという風に教えておられます。いかにも元気な心で信心しよるようであっても本当な所からまあ云うならば、しいら元気である。しいらである。
だからこうちょっとさびられるとふうっと飛んでいってしまうのですね。だから本気で実のある信心をさして頂かんならんのですけれども、なかなかもってお互いでけない人が多いです。
所が私の合楽の場合にはね、例えばそこに意気消沈しておるとか、もうダメだとこう思うておるとか云うような時に、神様が鍛えに鍛えて下さっておるときですけれども、そこに何ですかね、特別な働きが合楽にあっておる、云うならば少しその御恵みの水を送って迎い水をしてやれとおっしゃるような働きが合楽にはあっておるですね。迎ひ水をさしてもらうから、自分は気が付かんけれども、こうやって汲み出したら、どんどん水が出るようになった。
それからまた元気づいてまたお参りしてくるといったような方達も、まあそう云うようなのを倒れ転びしながら信心が続いておる中に、本当なものが分かり、そうなら実のある信心が段々でけるようになりね、そしてまあ井戸替えがでけた。云うならポンプの修繕もでけた。始めてなんぼ汲み出しても汲み出しても清水のおかげということになるのです。ね。
ですからお互いいわゆる信心さして頂いても、途中でやはりヤレヤレといったような時がありますけれども、そしてそう云うときになら、迎ひ水を送って頂いても、そして水をそん時出ましてもね、それをおかげと頂ききらん。御気付というのはそういう云うならば痛い思いをさせてでも、まあ御気付下さる場合もありぁ、それこそ思いがけない、云うならおやつのようなものをやって神様が元気づけて下さるといったような御気付もあるのです。
私は合楽で信心の稽古をされる、本当に稽古させて頂こうとするというなら、段々そういう心の上に生き生きとしたね、心の頂ける枯れかかっておると神様が特別な働きを見せて下さる。それは云うならば、合楽の祈りとかというか、それが送られる来るね。それでまたはっと気が付かせてもらうたり、まあおかげと思うたりして、いわゆる泣きべそをかきよったのが、またよい方に戻るといようにね、そういう働きを受けながら、お互い信心をさしてもらい、云うならば、右と願って左、左と願って右と云うようなときこそ、本当は神様の願いが成就しておるとき、いうならば、お互いのめぐりのお取り払いを頂いておるときと分からして頂くようになるとね、信心に云うならばいつも生き生きとした信心が出来るのです。
元気な心で信心せよというのは、私共がね、しいら元気ではいかん。しいらではいよいよ本当な、いわゆるさびられるときに、飛んでしまうね。実のある信心をさして下さい。それこそその為にはですね、私共がやはり天地自然の働き野中にどう云うような事になって成り行きでなって参りましても、その成り行きを大切に手だてを日頃稽古さして頂いておるから合楽の方達の場合は案外そこが出けていくように思うね。
これも先日、富久信会に久富正義先生が発表してましたように、ね、特に云うならば天地と直接の関係のある仕事を土木建築の御用ですから、天気と大変密接な関係のある仕事なんです。降った方がよいときもありゃ、ここで降ってもらっちゃでけんと云うようなときもあるけも、けども事こういうお願いをさして、頂いておるのでございますから、よし降る照る事に限ってだけは、御天候の事に限っては不足を申しません。というような信心の条件というようなものがでけておるとね、自分の都合の良いときだけは有り難いではなくて、都合の悪い時もね、天地の親神様の働きとして、それを受けることが出来る。そこに失敗のないおかげにもまたなって来るし、また成る程天地が自由になんなさるというが、本当にそうだなぁという実感も頂けれるおかげも受けられるわけです。
だから私共がいつもね、本気で成り行きを大切にする、尊ぶというなら、天地自然の働きに不平不足を云わず。こりゃ久留米の初代がおっしゃったお言葉だそうですが、「天地神明に不足をいわず」そういう云うならしっかりとした信心が出来ますとです。どういう事になりましても、不足の心も起こらなければ、弱々しい事にもなってこないし、むしろそういう何かの時にかえって生き生きとしたファイトが湧くという。それに立ち向かういよいよ有り難い心が生まれて来る。そういう信心が続けられて始めて井戸が清水になるのです。ただ長年信心が続いておりますというだけでは、井戸が清水になるまでの働きを受けて、いわゆる本当の真善美に輝く世界に住む事は出来んと思うですね。 どうぞ